ログインそれでも今も紗綾《さや》への想いを捨てきれない彼の複雑な心境は、私には全部理解することは出来そうにない。 他の女性と遊んで別れておきながら、想いを捨てる事が出来ず。それでも彼女が別の男性と幸せになることを望んで、それが辛くないはずがないのに…… 含みを込めた私の言葉も、伊藤《いとう》さんは笑って聞いているだけで……「面倒なことばかりを呼び寄せる麗奈《れな》に言われたくはないな。ところで今回の事、梨ヶ瀬《なしがせ》さんに話す気はあるんだろうな?」「えっ、話さなきゃ……ダメですかね?」 私的にはこれは自分の問題だし、わざわざ梨ヶ瀬さんに話すつもりはなかった。だけど伊藤さんには、それも見抜かれていたようで。 彼の表情がいつもよりも少し険しくなる、この人はそんな顔も出来るのかと思うほどには。「その時になって怒られてもいいんなら、俺はどうこう言うつもりはないけど? あー、でも梨ヶ瀬さんが本気で怒ったらきっと面倒だろうなあ」「そうやって棒読みの台詞で、チクチクと私を脅すの止めてもらえません? こういう時くらい、普通に心配だから相談しろって言えないんですか?」 どうしてこう、私の周りにはややこしい男ばかりが集まってくるのか本当に分からない。そう考えると、大きなため息がこぼれるのも仕方ないことだった。「麗奈は普段お節介ばかり焼いてるんだ、時には焼かれる方にもなればいい」「紗綾の時に御堂《みどう》さんを連れてきたこと、まだ根に持ってるんですか? 伊藤さんは面倒な性格な上にしつこいんですねえ」 どうも私たちは相手の事を思っていても、それを素直に伝えることが苦手なようだ。彼が本当は私を気遣ってくれていることもちゃんと分かってるのに、捻くれた言葉でしか伝えられない事ばかりで。 それなのに……「そんなの、心配してるに決まってるだろう。こう言えば麗奈は、ちゃんと梨ヶ瀬さんに今日の事を相談してくれるのか?」「……うわ、ずっるい」 いつもの伊藤さんなら、絶対にそんな事を言葉にしたりしないのに。彼の真剣な表情に、私の方がなんとなく負けた気分を味わうことになる。
「いいのか、麗奈《れな》。俺の話を聞いておかないと、きっと後で後悔するぞ?」「後悔する理由がこれっぽっちも見当たらないし、今はこの人といる時間を優先したいの。もしもまた会うことがあれば、その時に気が向いたら話くらいは聞いてあげるわ」 冷い態度でそう言い返せば、隣で伊藤《いとう》さんが吹き出しそうなのを堪えて肩を震わせている。 目の前で顔を真っ赤にしている男性をその場に残して、私たちは真っ直ぐ歩いて目的の改札口も通り過ぎていく。今の状況ですぐ傍の改札口で別れれば、あの男がまた絡んでくる可能性もある。 伊藤さんも私も一言も話さなかったけれど、お互いに当然というように駅から離れたカラオケボックスの中へと入っていった。「ふっ……はははははは! 見たか、あの男の顔!? この世の終わりみたいな表情をしてたぞ、よほど麗奈に相手にされなかった事がショックだったんだろうな」「私にそうするように視線で合図してきたくせに、伊藤さんも相当に性格悪いですよね?」 カラオケボックスの個室で笑い転げている伊藤さん、彼は多分あの状況を楽しんでいたに違いない。私の心配をしているかもしれないと思ったが、もしかしたら気のせいだったのかも。 まあ……この人がとても性悪だということは、随分と前から分かっていたからいいのだけど。「そうか? 俺はああいう思い上がった男を見ると、どうしようもなく虫酸が走るんでね。まあ、あの男に対して麗奈が可哀想だと思ったのなら謝るけれど?」「可哀想なんて思うわけないって、伊藤さんは分かってるくせに。それに……それって貴方自身にも当てはまるってことなんじゃないんですか?」 全く反省の色など見せないくせに、そう言ってくる伊藤さんをそのままにしておくほど私は優しくない。だって以前に彼は、私の親友の紗綾《さや》に同じようなことをしたのだから。「……だからこそ、だ。本人は大事なものが何なのか全く分かってない、そのくせ自分は愛されて当然だと思ってるなんて。そんな奴にはしっかりと痛い思いでもさせて、現実を見せてやるのも親切だろう?」 伊藤さんには私の元カレが、過去の自分自身と重なって見えてしまうのだろう。そのために余計に腹も立つし、何とも言えない感情を抱えるのかもしれない。 きっと伊藤さんが許せないと思っているのは、過去の自分の言動でもあるって事なんでしょうけれど
「じゃあ私は帰りますね、これコーヒーの代金です」 そう言って財布からお札を取り出そうとするが、すぐに伊藤《いとう》さんに止められる。その必要は無いと言うように。彼はその伝票を持つと、さっさとレジで会計を済ませてしまった。 そして……「近くまで送っていく、途中で転ばれたりしたら困るからな」「……まあ、伊藤さんがそうしたいというのなら止めませんけれど?」 間に人が一人入るくらいの空間を開けて、それが私と伊藤さんのちょうど良い距離。憎まれ口を叩きながら、それも悪くないと。 二人で駅から出ようとしたところで、懐かしいシトラス系の香水の匂いがして何となく振り向いた。「あれ……もしかして、麗奈《れな》?」 どうしてこんな時に限って、この人は私を見つけて声をかけてくるのだろう? お互いこの街で暮らしていても、今まですれ違った時は他人の顔をしていたはずなのに。 この甘い香水の匂いも、少し掠れたような低い声もすごく好きだった……今でもその思い出に、胸を締め付けられるくらい。「……麗奈、知り合いか?」 隣にいた伊藤さんがまるで彼氏のような態度で、私に声をかけてきた相手をじっと見つめている。 先程まで空いていた、一人分くらいの距離はいつの間にかなくなっていた。 おそらく一瞬で伊藤さんが私の表情が固くなった事に気付き、こうして守ろうとしてくれているのだろう。「昔、知り合いだった。ただそれだけの人」「ふうん? 相手はそうじゃないみたいだけど」 私の言葉に、伊藤さんがわざとらしい返事をする。 何事もなかったように横をすり抜けようとする私たちの行く手を阻むように、その男が立ち塞がったからだ。 面倒なことになりそうで頭がいたくなってくるのに、隣の伊藤さんは少し楽しそうな顔をしているようにも見える。 ……そうだ。この人はとても厄介な性格の持ち主だった事を、すっかり忘れていたわ。「……麗奈、話がしたい。少し二人きりになれないか?」「無理よ。何か話をしたいのなら、この場でしてもらえないかしら」
「ああ、馬鹿馬鹿しい! そんな理由だと知ったら、梨ヶ瀬《なしがせ》さんも呆れて麗奈《れな》から離れていくかもな。だいたいあんな出来そうな男がそんな風になるなら、逆に面白そうじゃないか?」 分かってはいたが……他人事だと思って、伊藤《いとう》さんは言いたい放題だ。 自分は元カノ相手に、散々グチグチしてたくせに。そんな伊藤さんにちょっとイラつきながらも、それを我慢して昨日の梨ヶ瀬さんとのやり取りを思い出す。 私の一番の心配を、梨ヶ瀬さんはこの人と同じように笑い飛ばして。そんなことで気持ちを押し殺すなんて、自分には理解出来ないとも話した。 それは目の前にいる伊藤さんも一緒なようで、むしろ梨ヶ瀬さんがそうなるのを想像して楽しんでまでいる。「みんなそう言いますけどね、私だって真剣に悩んでて……」「そもそも麗奈は、悩む所が少しズレているんじゃないのか? ダメンズにしてしまうから付き合いたくない、じゃなくて……どうすればダメンズにしないように出来るか。どうせ悩むのならば、その方がずっと前向きだろ?」 伊藤さんの言葉に私の方がポカンとしてしまう。 ……だってそんな簡単な事を、今まで私はずっと思いつかなかったのだから。 自分か付き合えば必ず相手をダメにしてきた、それはどうあっても変えられないんだと思い込んでいて。「なんでそれを教えてくれるのが、伊藤さんなのかなあ……?」「はあ? ここは素直に礼をいう所だろう、喧嘩売ってるんなら買ってやるぞ?」 私と伊藤さんの関係は、とても不思議なものだと思う。お互いに恋愛感情も無ければ友達なわけでもない、だからと言ってただの知人とも言えない微妙な距離感。 なのに、それが意外と悪くないと思うから不思議で。「なんだかんだでお節介なんですよね、伊藤さんは。自分の事も、それくらい積極的になればいいのに」「……いいんだよ、俺は。しばらくは自由を楽しむって決めてるんだから」 そう言って笑うくせに、その表情はやはり寂し気で。 「……ホント、意気地なし」 人には頑張れなんて簡単に言うくせに、自分は傍観者になる事に決めている。今の伊藤さんに、ちょっとだけもどかしさを感じていた。 そんな私の気持ちを分かっているのか、彼は横に置いていた紙袋を私に差し出してみせる。「それはお互い様だ。この話題はもういいだろ、そろそろ出ようぜ」 こ
「麗奈《れな》はさ、何で自分の気持ちに素直にならないんだ? 好きなんだろ、梨ヶ瀬《なしがせ》さんの事が」 第三者だから冷静に観察出来るのか、伊藤《いとう》さんには私の気持ちは完全にバレている。梨ヶ瀬さんに隠せているかと言えばそうではないけれど、ハッキリと突っ込んでくるところが伊藤さんらしいと思った。 伊藤さんには関係ない。そう一言いえば済む事なのに、それが出来ないのは彼が意外と真剣に心配してくれてるからかもしれない。「……だって、釣り合わないじゃないですか。私と梨ヶ瀬さんでは」 これは第一の言い訳。仕事も出来て人当たりも良い、その上あのルックスなのだ。私のような平凡で気が強いだけの女が、そんな梨ヶ瀬さんに似合うとは思えない。「へえ? 恋愛に必要なのは気持ちであって、容姿は二の次だと俺は思うけど?」 伊藤さんの言いたいことは分かる。梨ヶ瀬さんだって私の容姿だけを見ているんじゃないって事くらい、ちゃんと理解してる。 それでも何か理由を付けないと、自分を正当化できない気がしてて……「梨ヶ瀬さんは本社から来てるの、いつ御堂《みどう》さんみたいにそっちに戻るか分からないわ」「麗奈が梨ヶ瀬さんを追いかければいい、紗綾《さや》がそうしたように」 そんな簡単に言わないで欲しい。紗綾はその能力を買われ本社へと移動することになったけれど、私に同じことが出来るとは思えない。 ……それに、そこまで梨ヶ瀬さんの事を好きだという自信もない。「そんな簡単に言わないでくださいよ、何でも出来る紗綾と同じように考えないで」「紗綾だって悩んで選んだんだって、本当はアンタだって分かってるくせに。意外と言い訳が多いんだな、ウジウジ悩んでばかりに聞こえる」 なんでそう分かったように言うの、伊藤さんのくせに。 そう……サバサバした性格だとみられることが多い私だけど、本当は結構考え込んでしまうタイプ。ああでもない、こうでもないといつまでも答えを出せないでいる。 そんな格好悪い自分をズバリと当てられ、何となく恥ずかしい気持ちになってしまう。「だ
「いつも紗綾《さや》がどこまで許してくれるのか、どうしたら嫉妬していると正直に言ってくれるのか。そんな事ばかりを考えて、何度も彼女を傷付けていた。俺が紗綾に対して、素直になることが出来なかったばかりに」「……だから真っ直ぐに紗綾を愛している御堂《みどう》さんに、彼女を任せると?」 伊藤《いとう》さんは、そんな私の問いかけに返事はしなかった。 その無言の肯定に、私の方が胸が痛くて何とも言えない気持ちになる。 紗綾との一件の後に海外へと行ってしまった伊藤さんだが、そうしなければ彼女に対する想いを抑えることが出来なかったのかもしれない。 それほどまでに、彼も本当は紗綾を愛していたのだと。 「……私は信じないですよ、そんな愛。本当に好きなら諦めたりしないですもん、自分だったら」 これは嘘。私は自分に自信が無いから、すぐに諦めてしまう。梨ヶ瀬さんの事だって、ずっと誤魔化して彼が飽きるまでそうしておくつもりだった。 それでも伊藤さんが気持ちを押し殺している様子は、見ていて堪らない気持ちにさせられるのだ。「たとえ麗奈《れな》がそうだとしても、俺はそうじゃないんだよ。紗綾を幸せに出来るのは、あの男しかいないと分かっているから」 伊藤さんの視線が、チラリとテーブルの端に置かれた紙袋へと移る。彼の中で紗綾と御堂さんを祝福する、それはもう決定している事だと気付かされた。 今でも愛しているから、そんな紗綾の幸せを一番に考えている。そう自分を納得させるために、伊藤さんは日本を離れていたのかもしれない。「……馬鹿みたいですね、そんな強がり言って。自分が一番幸せにする、くらい言えないんですか?」「それを出来なかったんだからな、俺は。たった一度きりのチャンスを、自分のプライドで駄目にしたんだ」 それほどまでに伊藤さんの浮気は、紗綾を傷付けその心を追い詰めた。その結果、どれだけ伊藤さんと紗綾がどれほど苦しむことになったのかも聞いている。 私には、それ以上はもう何も言えなくて……「だからかな? 麗奈と梨ヶ瀬《なしがせ》さんを見ていると、上手くいって欲しいなと思ったりして」「……狡いですよ、そういう事を言うのは」 お互いの気持ちは分かっているのに、それ以上の関係に進もうとしない。そんな私達は伊藤さんから見ればもどかしいのかもしれない。 だから今回も私に確認もせず、